昭和46年03月19日 朝の御理解
御理解第94節
「信者に不同の扱いをすな。物を余計に持って来ると、それを大切にするようなことではならぬ。信心の篤いのが真の信者じゃ。」
これは御取次をさせて頂く者の、一番大事にしなければならない事だと思うんですけれども。ここの所が私は出来る取次者であり、教会長であるならばね必ずそういうお広前は、繁盛すると思うですね。ですからここの所は取次ぎの先生に対する、是は御理解だとこう思います。けども是は矢張り今日は皆で頂かなければならないという意味でですね、信者にというのではなくてね、私共の例えば縁のある限りの人私共に様々な縁が出来る、いろんなお付き合いをしなければならない人達が、随分ありますね。
商売人であるならお得意さんと言う事にもなるでしょう。そういう私は自分の周囲に、まあそうした関係を作られる、作っていく人達の上にですね、やはり神様の氏子としての見方、それを不同の扱いをすなと。これは私信心させて頂く者の、教師も信者もないと思うですね。だから信者に不同の扱いをしない。神の氏子としての見方をできるような先生のとこなら、私は、絶対御ひれいが輝くと思うんですけれども。ならお互いお道の信奉者である信者の、皆さんの場合でもです。
その誰も彼もというわけには参りません。それは仏教の言葉で言われる、袖すり合うも多少の縁というぐらいでございますから。まあ袖すり合うも多少の縁というまではいかんにしてもです。どうでもこの人とお付き合いをしなければならない、この人との関係ができたという場合です。そこのところを私は、神様の氏子としての見方頂き方、いわゆるそこに不同の扱いをせんですむ私達そういうね、いよいよ私はおかげの頂ける人は、絶対おかげが受けられると思うですね。
信者に不動の扱いをしない先生のとこになら、絶対人が助かるしそれこそ、県知事亀井さんの県政に対するスローガンじゃないですけれどもね。その明るい愛情ある県政と言う様なスローガンをね、まあ打ち立てての今度はま選挙に臨まれる訳でしょう。青年に希望を婦人に夢をと、県民に幸福をと言う様なスローガンでしたね。私は是を見せて頂きながらこれは、私の信心の内容にもこういうものがあると言う事です。
明るい愛情をお広前いっぱいにみなぎらせたい。ここに参ってくる信奉者の誰彼がです、その明るい愛情に触れられる。そういうお広前でありたいという風に私は思います。また願いであります。青年に希望を婦人に夢を。どうでしょうか青年の方達が、私の信心に希望が湧くようなものを、私は与えておるであろうか。ここにお参りをされるから、婦人男子に限らずですけれどもね、やはり一つの夢を与えておるであろうか。
県民に幸福をこれはここんところは、私は世界中の氏子に幸福をという風に、これは祈らずにはおられん、願わずにはおられない。この三つのことをです、私の今の内容として、いや私の内容だという風に感じたんです。昨日教務所長の、お話を聞きに行ったここにここから、今度学院に参ります5人の修行生の方達がまいりましたが、徹君に面接される時にそのちょっと言われたというんですね。
今の教団にとって青年信徒というのはね、もう貴重な宝石にも似たような存在だと言われたんです。合楽で例えば沢山の青年の方達が、正月なんかは、あの、正月のお参りなんかは、青年の方たちばっかりが、バス1台貸し切ってお参りをする。ああいう事が、去年から、なされておる。そん時に、九州のひれいだと神様は、あん時に言って下さったですね。ですからその若い人たちのその勢いというか、その信心がですね、やはり青年の方達に希望が与えられる。
まあそれを極端に言うならね、まぁ親先生のような信心になりゃああいうおかげが受けられるという一つの希望をね、私はある意味で与えておるからだと、私はそう思うですね。まあいうならば先生に続けと言う様な希望をね、私はこれは若い方だけに限らんのですけれども、それをもう何とはなしに与えておる。それは何とはなしにこのお広前にみなぎっておるもの、またみなぎらなければならないと確信しておるもの。
それはいわゆる明るい愛情ある雰囲気がです、お広前いっぱいにみなぎっておらなければならないと言う事。まるきりこれは亀井さんの、まぁそのあれじゃないですけれどもね。昨日私はその昨日は亀井さんの、何か選挙事務所開いて、久留米の方たちが、大変おかげを受けた方達が居りましてね。是非合楽にお願いに参ろうというてまあ久留米のいわゆるハイクラスの婦人の方達がね、お参りになりましてから、ゆっくり私の話しを聞いて帰って下さったんですけれども。
それこそ婦人に夢をちいうて、ほうそうですかもうびっくり仰天してね、ここの御ひれいを聞いて、私共もここの信者の一員に、ひとつ加えて頂きたいと、言うて帰られたんですけれども。ある意味で夢を与えた訳になるんじゃないでしょうかね。信心とはそういうものですか。金光様のご信心とはそういう、有り難いものですかと、少し分かられたという感じが致します。
昨日丁度その時でしたが、日田の麻生さんが2度目のお参りをされました時に、今度息子さんの学校を選ばれるのに、こういう学校はどうでしょうかというて、あちらの案内書のようなものを、私にちょっと見せられました。そのあそこの学校のまあ、講師と言うでしょうかね、その大きく書いてあるのがね、一期一会と書いてある。これは仏教の言葉だと思います。私はその大変なこれは深い意味があることでしょう。
仏教の言葉ですから、もうそりゃ非常に意味があるだろうと思います。こういう字が書いてある。一期いちごとは一期と書いてあるね。一期一会。私はだから、私なりにねこのことを思わせて頂たんですけれども。今日私御神前で、昨日麻生さんに見せて頂いた、その一期一会というのを頂くんです。そして今日教典を開かせて頂くと、94節なんです。ですから、信者に不同の扱いをすなという事をです。
今日は私共の関係ある限りの人、これは先生が信者に不同の扱いをしない、お広前なら、必ず御ひれいが輝く。いわゆる明るい、いわゆる愛情の満ち溢れた、いわば、お広前になることであろう。神の氏子としての見方を、例えば、できる先生のところであったならば、というのですから。ほんなら、信者の皆さんの一人一人の場合でも同じことが言える。信者という訳じゃないけれども、私共が自分の周囲にできていく関係の人達の全てをです、神の氏子としての見方をさせてもらい。
いわゆる大事に扱うていき、大事にお付き合いをしていくということはです。私はね一期一会というのは、そういう意味も含まれておるのではなかろうかと、こう私は感じ取らせていただいたんです。だから94節を今日は、そういう意味で聞いて頂きたいと、まあ思うた訳でありますそしてこの一期一会である。一期というのは一期の願いとこう申しましょう。これ一生という意味だと思うんです。
だからです私共がね、ほんなら初めて、例え昨日久留米からみえられた、幾人かのご婦人の方はです、私と初めて会われたわけです。それはもう一生一度にね、一回のいわば始まりができたのです。これは人間だけの事じゃないと思うです。私共日々生活させて頂く様々な問題がです。もう一生にね一回しか会えない問題だと、もう取り返しのつかないものなんだという事なんです。
だからそれを実意丁寧に頂かなければならない、それを大切にしなければならないという事である。そこで私共の内容としてです。所謂明るい愛情が無い限り、折角一生に一度初めて会うた人にです。あの人は本当にまあそれから、会えないかも分かりませんけれどもです。その人の人格なら人格というものに触れて、本当に素晴らしい人と会ったと相手が思われるような、またこちらも思えれるようなおかげを頂きたい。
初めて会ったが冷たい感じの人じゃったなんていうものじゃなくてです。とにかくあの目の意地の悪そうな、あの目と言われる様な事ではなくてです。所謂目には愛情が溢れておる、態度は明るい親切と言う様なものをです。私は関係のある人ごとにです、与えれる内容を頂いて行く事だと思う信心とは。一つ一期一会と言う是は私なりの解釈でしょう。恐らく仏教ではもっと意味が違った深い事だと思うんですけれど。
私はこの一期一会という事から、そういう風なものを感じた。信者にふどうのあつかいをされるだんのことではない、初めて会う縁ができたんだもん。その人に何とはなしに有り難いものを押し売りするわけではないけれども。与えて帰せれる先生になりたいと、まあ私はそういう事を感じたんです。初めてお会いしたんですけれども。本当に、素晴らしい先生だったと。
それは私の内容から生まれてくるというか、発散されるそういう発散のできれる内容を持ちたいというわけです。これは隠す事はできませんからね、発散するもんですから。私共は日々合わせて頂く問題もです、それはもう後にも先にも、またと会うことのできない程しの大変な事である、大事な事であるということ。ですから些細な事いわば大変な事、これは同じ思いで、いわゆる神様の御事柄としてです、実意丁寧にその事を頂いていかなければならないという事なんです。
私はその事をね一期一会という事を、夕べ昨日その事をスカッといわば見せて頂いただけだったんですけれどもね。今日この様な御理解を頂いてみるとですね、はあ大変なあれはいわゆる一期一会であります。で私はその見せて頂いた瞬間、この学校は仏教関係の学校ですかと聞いたら、そうでもないらしい。してみるとその事がです。私に神様が初めて与えて下さろうとするそういう機会をね、私はそのことだけが頭の中に印象に残っておった、一期一会という事が。素晴らしい良い言葉だなと。
そう言う様に大事にされれるもの、挨拶一つ交わさせて頂くでもそうです。相手にそのようないうなら明るいもの、愛情を感じさせれるような、私は生き方あり方という物をね、身に付けていくという事が信心だという風に思うのです。昨日下がらせて頂いて、高橋さん茂さん久富さんと四人で、お食事をさせて頂きよる時に、ある親子三人の人がわざわざ、私がここにおらなかったもんだから裏に挨拶に来てくれた。
長い間いわば夫婦別れしておった訳です。すぐ入ってきた途端に私はもう、お帰りなさいっち言うた。私はもう嬉しゅうしてたまらじゃったから、思わず知らずそう言うたんですけれどもね。もう本人達もそれが嬉しかったごたるふうですもん。主人の方も目に涙をいっぱい溜めて、もう本当におかげを頂きました。ついてきておる子供がもう嬉しそうな態度でね、母ちゃん母ちゃんと言う、その口では言えんけども、久しぶりに帰ってお母さんが帰ってきたもんですから、嬉しゅうしてこたえんち言う。
主人の方になる人も、その事が嬉しゅうしてこたえんと言う。それこそ新婚の時の嬉しさよりも、暫くお互いが修行させて頂いて分かれておって、涙が流れるほどに有り難かった。親子三人でこうやっておかげでまた、おかげ頂きましたと言うてお礼に出てきた、この気持ちを忘れなさんなって私が。それこそ一期一会ではないですけれどもね、縁あって結ばれた。そして子供までなした。
それがある事情で別れたけれども、それはただ雨降って地固まる、その間にお互いがいろいろな修行をさせてもろうた。一生懸命にお参りもしてきた家内もやはりあの時折、ちょこちょこ参ってくる又は電話でお届けをすると言う様な中にです、いろんな事情がまあ見事なタイミングの中におかげを頂いて、もう本当にそこの姑の方が言われるんです。もう家の嫁ぐらい素晴らしいのはないち言うて。
ほめちぎっておられた嫁さんだったんです。けどもあるちょっとした事柄で、まあそういう結果になってしまっておったんですけれどもね。おかげを頂いて、いわば是からはそれこそその夫婦にです、明るい愛情を持ってこれからの夫婦生活がです、できていかなければならない。まあそういう祈りを込めて、まあ一緒にお茶頂いて帰りましたけれども。もう帰っていく、その後姿を拝ませて頂く様な思いでね。
有り難いなあと思ってから。是が信心がなかったら、もう本当に別れ別れになってしもうて、そっからその困った運命になっていくかも解らないけれども。信心があったおかげで両方とも、やはり御取次を頂いて、ここまで育ってきたおかげでと、いわゆるこの子供達にもね、新しいお母さんなどにつけんですむようなおかげを頂いたという事なんです。私その中からも、この一期一会というものをね感じます。
本当にそこを大事にしていかなければならん。今日はね、又こんな事も頂いたんですけれども。面白い私はあんな女優さん、見た事もないんだけど。アメリカのなんかあれは、どこの何ですか、マリリン・モンローという、あの肉体美で売った女優さんがおりましたでしょう。私は見た事はないですけれども、今日御神前でそんな事を頂くんですよ。そりゃ素晴らしい美人だったらしいですね。
素晴らしい肉体美の、いわゆる世界一の美女と言われるほどしの、人ではなかったかと思うんです。私詳しくは分からないけれども。その人の事をこの頃テレビでね、言うておった事を頂くんです。もうこの人は亡くなっておられる方だそうですけれどもね、この人はね、沢山の男性遍歴のある女優さんとして有名であった。そのマリリン・モンローが、しかし言う事はですね、どの男性も私に関係のある限りの男性はとても素晴らしい男性であったと言うておるそうです。言うておったそうですね。
もう別れたもうあげな男はなかったと言うのが普通でしょうが、別れた時には所が別れた後味がです、もうあんな素晴らしい男性はなかったと、みんながそう言ってる。そして最後の言葉が私は気に入った。私は馬鹿だからといつも是だったそうですね。私達がですもうありとあらゆる、ほんなら私共に一期一会、いわゆる会わせて頂く人達の関係の中においてですたい、その会うたどの人もがです、素晴らしい人であったと頂ける内容を私は頂きたいと思うですね。
私は自分が有り難うなってくるとです。私の妹が一つの例をを出してから、すみませんけれどもね、妹に縁のある人達は、もうとても大変良かお方ちこう言うんです。ほんなら悪口でも、あげな良かお方の事を、誰でんどうしてあげん悪う言いなさるじゃろうか。もう私の妹には、みんな良かお方に見えるわけなんです。そうありたいと私は思うですね。あれは意地の悪い奴じゃった、根性の悪い奴じゃったじゃなくてね。
だからそれにはその、一期一会です。もう一生に一度しかない事、一生に一度しか会う事のできない事柄としてです。その事柄を神様の私に下さった事柄として、それに御の字をつけていく御事柄である。それがいわば私が成り行きを大切にすると言う様な事も、やはり中にあると思うんです。どういう嫌な事柄であっても、その成り行きそのものも一期一会としてのです。神様がもうこういう事はまたと会えない大変な事柄を、私共に会わせて下さるのであるから。
それを実意な心を持って、それに対処していく。また関係を作っていく深めていくというおかげを頂きたい。そして明るい愛情という事ですね。そういう信心で生まれてくるところの実意丁寧、温かい心そういう心を、誰にも振舞うていけれるというか、誰でも接する人に与えていけれる内容を、いよいよ高めていかなければならないという風に思うのです。それにはね、私マリリン・モンローさんじゃないですけれども、私は馬鹿だからという自覚なんです。いわゆる馬鹿と阿呆で道を開けと。
いわゆる自分が気の利いておる、自分が偉いという所にはです、みんなを見下げなければならなかったりあれはつまらんと、比喩をしなければならない事にしかならんのですよ。マリリン・モンローというのは、そういう世界一の美女と言われる人でもです、自分のようなものとか、自分は馬鹿だからというその自覚がです、すべての遍歴をした、その男性の一人ひとりが素晴らしい男性に見えた、男性であったと見えたんじゃなかろうかという風に私は思います。
いよいよ馬鹿と阿呆を身に付けていかなければならん事が分かります。自分を最低のところにおいての、見る人ですから、その人が全部素晴らしい人に見えてくる。素晴らしい事柄に感じ取らせて頂ける内容を頂きたい。一期一会という事と、今日の94節の「信者に不同の扱いをすな」というところをです。自分に関係のある限りの人に、不同の扱いをすな、また自分の周辺に起きてくる問題の一つ一つをです。これはちょっとした事だから、これは大変な事だからと、いわば不同の扱いをすることのない。
このくらいの事だからと言う所から、過ちが起こると、今の教祖様が仰っておられますようなですね、そう言う様に一つ一つの事柄の上においてもです。一期一会の事としてです、大切に取り組んでいき、実意にその事に思いを、真心を込めていくという信心。そういう信心がです、私はいよいよ手厚い信心、手厚い信者としておかげ頂けれる事になるのであると思います。
信者に不同の扱いをせんですむ程しの、いわば先生がそこの教会長であるならば、その教会は必ず御ひれい輝くだろうようにです。皆さんの場合でもです事柄でも、人でもその関係のある限りの事柄やら人やらをです、大切にさせてもらう生き方を身に付けておいでられたら、御徳が受けられぬ筈がない、おかげの受けられぬ筈がない。いわゆる手厚い信者としてお引き立てを頂く事が出来るとこう思うのです。
けれども矢張り人間ですからね、矢張り感覚を持っておりますと、どうでもあの人ばっかりは好かん。どうも虫が好かんというのが、やっぱりありますよね。けれどもそこのところを神様におすがりして、一時は難しいことがあっても、辛抱していく間には、徳が受けられると仰るのですから。そういう嫌な問題とか嫌な人との間にです。愛情を高めていくというか、その問題を実意丁寧に扱っていくというか。
そこに辛抱させて頂く間にです。徳が受けられるというのですから、そういう事柄こそ、そういう人こそ、自分が徳を高めていく絶好の機会を与えられた、絶好な徳を受けていくための、相手の人を与えられた、選んで頂いたとして頂く事が出来るんじゃないでしょうか。これは90節の御理解の最後の所に「一時は難しい事があっても、辛抱していく間には徳が受けられる」。矢張りそこには辛抱がいるのです。
昨日、吉井の熊谷さんがお参りになられた。朝のお参りの時でした。御祈念中に日田の綾部さんを頂かれた。そしてその綾部さんが一生懸命、その水の上に油が浮いておるのがはっきり分かる。それを一生懸命混ぜておられる所を頂かれた。だから私は熊谷さんに申しました。これは綾部さんの事ではない、あなたの事としてですね、あなたが例えば水の性でありながら、相手の人が油の性であるとするものをね、混ぜたって絶対これは水と油ち、昔から言うてあるごと合うもんじゃなか。
そういう努力は無駄な努力である。だから皆さん辛抱するというてもですよ、例えば水と油であるとを一生懸命辛抱しても、一生辛抱したっちゃ駄目。油はちゃんと上に浮いとるとだけん。だからこれが反対になら、綾部さんと熊谷さんという場合に、横に頂いてもだから私は、良かろうかとこう思うんです。考えてみると綾部さんと熊谷さんなんかはもう全然水と油のように反対の性格の方だと思いますたいね。
ですからそれをいくら努力してですたい、あの人と気持ちが合うごとち言うごたるふうで、混ざり合わせたっちゃ合うもんじゃなかて。それよりかね自分自身が水ならば、油の性になる事に努めなきゃならん。自分自身が油の性であるなら、自分自身が相手の水の性になることに、自分自身が努力する以外にないのです。それを混ぜ合わせることに努力したって駄目だと。
だからここんところを人間関係の場合ね、だから自分をいっちょそこんところまで、まあ例えば程度が低い人ならば、程度の低いところまでいっちょ降りてみるという事なんです。私はそう言う様なね所謂工夫がいるんじゃなかろうかと。また今日の御理解の内容としてですね、そういう事も私は心掛けていかなければならない。辛抱するという事が歯を食いしばって辛抱すると言うだけではいかん。
いわゆる信心辛抱でなからなければいけんのです。それにはねやはり相手の心を心としてという風な言い方、言い方を致しますように相手の心になってみてです。私はおかげを頂いて行く事が相手と一緒になっていくおかげが受けられる事だと思うです。それも矢張り今日の一期一会と、それから94節、御理解94節の、内容というのじゃないけれども、私は今日はそういう例を先生の立場じゃなくてです。
信者の立場としてこの94節を頂いたんです。今日申しました事を、皆さんよう一つ内容をです、まぁ一つ噛み砕かれてです、もちろんこれは一期一会という事は、私の説明は仏教的に言うと違うかも知れんのです。けれども、私は私なりに一期一会という事を、そのように解釈しました。だから御理解として頂いて下さらなければならんですね。
どうぞ。